<<文芸の部屋2>>


<白富士と黒服の女性>
 冬のよく晴れた日の富士山ほど素晴らしい存在はない。  朝の晴れ渡った空気を透して白く輝く富士が好きである。  誰もが富士山を発見すると、”あっ富士山が見える”と 口にするのではないだろうか。  それほどに親しまれている富士山である。  日本一高い山と言うよりは、どこからも見え、単独峰であり、 円錐形に整った姿に魅了されるのであろう。

 その富士が、通勤電車の車窓から、建物の隙間を 通して垣間見ることができる。  朝の電車内では、太陽の陽射しを気にして 富士を背にして座るのだが、今日は、いつもの座席 とは違って逆側に座り、富士山を見ることに専念した。  このごろは邪魔する建物が多くなり 見える隙間が少なくなっている。  電車が進むにつれて、富士山が 建物の間から見えるようになってきた。 電車の振動音を 聞きながら建物との間の一瞬、吊革 に立つ人との間の一瞬を見逃さないようにする。  その瞬間、雪に覆われた富士山がちらりと見えると嬉しくもあり、 ほっとする気持ちにさせてくれる。

 いくつかの駅を過ぎ、黒服の女性が乗ってきた。  いつもの座席であれば私の前に立つのであるが、今日は、 勝手が違っている。
 後姿からは、いつもと変わらぬ様子である。  私の降車駅にて座席を入れ替わるのであるが、 今日はどうであろうかと心配してしまう。  富士を見るために、彼女に失礼をしてしまった。

 黒服の女性。 いつも黒系の服装に身を固め。  持ち物も黒系にまとめている。  年齢は40歳代だろうか。 多少、顔の張りの衰えを 化粧が埋めているが、個性的な顔立ちの美人である。  ツーピースの上着の中の白いブラウスが眩しく 映る。 胸元はあまり豊満ではないが、全体的に 肉付けは良いようだ。 付け爪をした指には 結婚指輪らしきものがない。 未婚の人かも知れない。  もちろん、ストッキングも黒で、靴も黒である。  彼女は黒がよほどに好きな様である。  白の富士も魅力的であるが、黒の彼女にも魅了される。

 彼女は、どこの駅まで行くのだろうか。  そして会社は?仕事は?興味を持って 後を着けてみようかと思うが、これではストーカーである。
 勇気を持って、直接聞いてみようか。  これは、まずいと思うのでやめよう。  寝たふりして、様子を伺うか。  これも、仕事を休むことになってしまう。  ハンカチでも落とせば、拾ってあげてきっかけを作る。  これも、可能性が皆無であろう。

 私は、勝手な妄想に取り憑かれた。  富士山を見る座席に座りながら、黒服の女性を待つ。  この時も同じように彼女が乗ってきた。
 何気なく様子を伺いながら視線を彼女の背中に送る。  降車駅を過ぎても私は彼女と同じ車両に乗り続ける。  今日は仕事を休んでいる。 ついにストーカー となってしまった私に恥じらいを感じる。  でも、決してやましい気持ちからではない。  私の、疑問を解決するためである。
 彼女は途中駅から座ることが出来た。 車内は混雑 しているので、良く観察していないと、どこで 降りたか見逃してしまう。 私の眼は何か異様な ものが光っているようだ。 必死に見ていたお陰で 彼女が降りるのが分かった。  私も慌てて降り立った。
 東口の改札を出るとエントランス通りを真っ直ぐに 行く彼女の後をつける。  10分ほど歩いたろうか、あるオフィスビル内に 入っていった。
 私は、入り口近くでうろうろとして、 これ以上は無理だろうと思って諦めかけていると、 彼女が出てきて、こちらの方に向って来るではないか。  私は、心臓が飛び出すほどびっくりし立ち尽くして しまった。
 彼女は、私などお構いなしに、通り過ぎていってしまった。  気がついたのか、気がつくこともないほどに関係ない 存在なのかわからない。
 私にとっては彼女は気になる人であったが、 彼女にとっては何でもないこと、気にならない物であった。 このことは、私にとって何か安心にさせることになったが、 反面、淋しくもあった。

 と、想像をして見たが、私は夢心地で目覚めたときは、 二駅を乗り越してしまった。  この日をきっかけにして、私は、一つ前の電車に乗ることにした。  彼女は、今でも同じ時間、同じ車両に乗っているのだろうか。  夏が来たら、こっそりと、元の電車に戻ろうかと思うしだいである。

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<街行く人と無常観>
 山から下りてくる北風の寒さから、暖められた南の風に変わるとき、 冬と夏とを分けるその隙間を縫うように春がやってくる。  季節の訪れは、太陽系の運行が規則正しく続く限り繰り返されるが、 近年、寒さから一気に暑くなるようで、春うららと成りにくい。
 春や秋が無くなってしまったのではないか。  強い日差しの中で、そのように感じられる。  そのような中で、薄曇りで霞がかかった様な日は、 うらら気分で野辺の花でも愛でながらゆっくり散歩するのがいい。

 最近、気になることがある。 歩くのが遅くなったのである。  街での歩き。 通勤途上での歩き。 どのシーンでも気がつくと、 いつも周りのペースより遅くなっている。
 以前は、早足のつもりでいたのだが、どんどん追い抜かれてしまう。  足音が高くなり近づき横を追い抜いていかれても、 多少の負い目はあるのだが、抜かれたか思う程度で、 あまり気にしなくなっている。  たまに、抜き返そうと早足をするのだが、抜きつ抜かれつを繰り返し、 気を緩めると遅れてしまう。 多少の悔しい思いが残るが、 急ぐことはないのだと悟って諦めることがよくある。

 だが、足が遅くなったがゆえに、別な世界が見えてきた。  ゆっくりがゆえに、人行く後姿を観察できることである。  朝の通勤時、定刻の電車に乗り、改札を出るのもいつもの通りである。
 通勤道を同じ足取りで歩いていると、いつもの人がいる。  それを、見つけるのは信号待ちの交差点である。  「あっ、今日もいたな」と思う。  スカーフとアップの髪と留めピンそれとイアリング。  それが印象となり、目印となっている。
 信号が変わり、ゆったりと歩き出す。  敷き詰められた薄茶色のレンガの歩道。  街路樹の小枝からの芽生え。  新緑とコブシの白い花。  爽やかな風に揺れながら舞い散る桜の花びら。  朝の柔らかい光を受けたビルの造形。  それを差すように真っ直ぐに伸びる道路。  その先のは青く輝く空がある。
 その人と方向が同じであるので、後を追うようになる。  後姿を見つめていると、息遣いが聞えそうで艶かしくなる。  どこまで行くのか。どこに勤めているのだろうか。  などと思っている内に、徐々に間隔が広がっていく。
 ある距離になると、生身の人間から異次元の存在として 浮かび現われる瞬間がある。 この時がよい。  前方の景色の中に解け込み、一枚の絵として切り取られる。  そのとき、愛憎辛苦を背負った人間から、 何も無く、ただ人間の形をした造形となる。  そして、どんどん、どんどんと遠ざかって薄れていく。

 人は、人生の道をひたすら歩いて、いずれ無の世界に 歩んでいく。 物の哀れを感じながら、景色に同化する前行く人を見て、 そのような感慨に耽ってしまうのである。

 春の朝の清々しい中で、絵画の世界、詩文の世界、映画の世界、 物語の世界。 いや、愛の世界か。 それらの思いを観念しながら 早く歩けなくなったために生まれた恩恵をも感受しながら、 遅くなった歩調で歩くのである。

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<昔を思い出す山行き>
 私はランナーであると自認している。  しかし、今、腰からくる神経痛でまともに走ることができない。  ゆえに、練習が出来ずに、悶々たる日々を過ごしている。  決して早くない市民ランナーであっても、 自身に課しているレベルを維持したいと願うものである。
 歩く分では痛みが出ないので、早足のウォーキングでも しようかなと思うのだが、常に走ってトレーニングしていた 身としては、歩るくことに何か抵抗を感じる。  そこで、山歩きに挑戦した。  ウォーキングでもやり方によっては、足腰が鍛えられる と思うのだが、若いときに山歩きした経験で実行しやすい。

 都下の低山を歩いたときである。 山ガールをつれた青年が 石を落としたときは、「ラッセ、ラッセ」と言うんだよ。  「ラッセ」が恥ずかしいければ、「落石、落石」と 言えばいいんだ。 と山ガールに教えていた。
 これを聞いて昔のことを思い出した。  若いころの山歩きは、山に入って自然を満喫するよりは、 地図のコースタイムへの挑戦であった。  重い荷物を背負い、行動時は出来るだけ薄着にして 勢いよく登っていく登山であった。
 ガラ場を抜ける場合などは慎重に歩くが、ときには、 大胆になることがある。 浮石に足が取られ滑って 踏ん張る。 このとき石を落とすことがある。  このようなときに、大きな声で「ラッセ、ラッセ、ラッセ」 と叫ぶのである。 恥ずかしいことはない(石を落とすことは恥ずかしい ことと思うが)。 大きな声で叫び厳重警戒を知らせるのである。  「ラッセ、ラッセ」はまだ生きていた。

 話は変わるが、この山行きでは、「きじうち」が多かった。  年齢のために早いのかも知れない。  ここで思い出すのが、若き日に、友人とその彼女の 三人で尾瀬を歩いたときである。
 燧ケ岳の中腹でトラバースしているとき、その彼女が 「もよおし」てきたのである。 小屋までには大分あるので、 しかたなく、「我慢することは、注意散漫となり登山では危険を伴う」 とか何とか言って、彼女に放出を促してしまった。
 私と彼とが道の両側で見張りに立ち、登山者をブロックする作戦である。  もし、このとき登山者がやって来たらどのような説明をしたのだろう。  来なかったので良かった。  彼曰く、彼女、コルセットをしていて大変だったようだ。  自然に抱かれて解放するよろこびを味あったと思いたい。
 この彼女、均整のとれたスタイルの超美人で、ファッション雑誌 から飛び出てきたような人であった。 友人の彼の方も彫が深く 日本人離れしたいい男であったので、このような美人とも釣り合いが 取れているのでいいのだろう。  私は一人だったので、山小屋の夜は、淋しく膝を抱いて寝ることになった。

 今回の山歩きは、「ラッセ」や「きじうち」から昔の思い出を巡らせ ながらの5,6時間の山歩きであった。 この山行きが、走るトレーニングの変わりとなったのかどうか。  走れないことに対しての気分転換ができたと思うしかない。

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