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[職場だより] 2019年04月25日 東芝青梅城の滅亡
−これからの時代、雇用と地域経済を守る経営が求められる−
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東芝の職場を明るくする会のホームページの読者から、東芝青梅工場(事業所)閉鎖後の、最近のようすを知りたいというリクエストがありました。
会は4月19日から3日間、東芝青梅工場の周辺地域、青梅市に取材に入りました。
明るくする会のホームページのトップ画面には「青梅工場跡」という写真集を掲載していますのでご覧ください。
東芝は2015年12月、突然に東芝青梅工場(事業所)の閉鎖を発表しました。
東芝は経営の失敗や粉飾決算で、経営が厳しくなったので、東芝青梅工場を閉鎖するというのです。
東芝青梅工場は1968年に東京都青梅市末広町で操業を始めました。
敷地面積は12万平米(東京ドーム2.5個分)の広大な土地に5棟の工場ビルを建て、ピーク時には4500人の労働者が働いていました。
また工場周辺に多数の下請け会社を持っていました。
東芝青梅工場の存在は、雇用の場を提供し、地域経済を潤してきました。
東芝青梅工場のアクセス駅、青梅線小作駅周辺は、東芝の城下町として栄えました。
飲食店が立ち並び賑やかな街でした。
突然の東芝青梅工場閉鎖の発表に、青梅市、市民から驚きの声があがり、雇用と地域経済を守れの市民運動が起こりました。
2016年3月には周辺地域の青梅市長、羽村市長が、東京浜松町の東芝本社に出向き、室町社長(当時)に会って、青梅工場の存続を申し入れました。
しかし、東芝は2017年3月に東芝青梅工場を閉鎖してしまいました。
工場閉鎖から2年、取材に入って驚きました。
東芝の城下町だった青梅線小作駅周辺の街は、明かりが乏しく暗くなっていました。
歓楽街は消えていました。
東芝青梅工場の近くにあった中華料理屋さんも閉店していました。
昼休みと退社時間後の店の賑わいは、いまは思い出になりました。
4月21日は東京都青梅市議会議員選挙の投票日でした。
今回の市議会議員の立候補者の中に、東芝青梅工場(事業所)の代表者はいませんでした。
東芝青梅工場は、1975年から青梅市議会に、工場の代表者を市議会議員にして送りこんできました。
市議会議員選挙は、東芝青梅工場の丸抱えで行いました。
候補者カーの運転手、ウグイス嬢は従業員にやらせる。
従業員を使って、工場体育館に設置した臨時電話で票読みをさせる。
従業員に有権者宅を訪問させ票読みをさせる。
下請け会社に票を割り当て、名簿を提出させる。
下請け会社は、東芝から仕事をもらうために、やむなく協力しました。
世間から企業ぐるみ選挙の批判があっても、東芝は大企業の経済的力をバックに、批判を抑え込んできました。
今回の市議会議員選挙が始まる前の、地域ローカル新聞の報道では、現職の工場代表の市議会議員は、立候補の予定となっていました。
しかし、東芝の力がないと、選挙期間中の活動、候補者カーの運行、ウグイス嬢や運動員の確保などをすることができないし、
まして票読み、当選の見通しが立たないようで、立候補を取り止めました。
東芝青梅工場49年間の歴史、青梅市議会に工場代表者を送りこんで44年間、これで東芝青梅工場の姿は消えました。
東芝青梅城の滅亡です。
利益優先で、儲けるためには雇用も地域経済も破壊していく企業経営は、いかがなものかと思います。
企業活動の在り方を変えていかなければ、市民も国民も、国も生きていくのが難しい時代になってしまっていると、強く感じました。
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